こんにちは。
私はよく、体調を崩します。
家族からもよく、「最近◯◯だったからやっぱり風邪ひくと思ってた」
など言われます。
最近の季節の変わり目での急激な寒暖差からなのか、体調が思わしくない今日この頃。
とはいえ、以前と比べたら、調子が崩れるのが少なくなってきたように感じます。
私は病気を患い、家族や友人にも言葉にできないほど心配をかけたこともあります。今もかけていると思います。
日々の活動記録、振り返り、などなど、病気を通して、少しずつ「自分自身の理解」ができるようになってきたかもしれません。
そうして少しずつ、少しずつ、自分の体調不良の前兆がなんとなくわかってきた、のかもしれません。
そんなこと、当たり前、のことかもしれませんが、ずっとそれがよくわからず、今も確信を持って言えない私のような方がいらっしゃるかもしれませんので、何かのヒントになればと思い、思いつくままつらつらと書き連ねていきたいと思います。
心身の調子を振り返る
季節の変わり目で服装、体温調整が難しい時期
何か新しいことをはじめ、それが楽しくて仕方ない時
仕事も私事も、色々重なり空白の時間がないスケジュールの時
日頃はしない何かをした時
大体振り返ると、私は上記のような時に、急な不調になることがあります。
別にしんどさを感じていようと、いまいと。
むしろしんどさを感じている時の方が、そこまで調子を崩さないで過ごせているかもしれません。
楽しかったり、やりがいを感じて突き進んでいる、時も不調につながることがあります。
実は、「急」な体調不良ではない、のかもしれない、と最近気づき始めました。
きっかけは小さなこと?
前項では、何かと熱中していたり、季節の変わり目だったり、そんな時に前触れなく急に心身の不調が起きやすい、と書きました。
しかしそれは本当に急なのでしょうか。
いきなりものすごい不調がぽっと出てくるのでしょうか。
海外ニュースなどで報じられる大きな山火事なども、いきなり人の手の施しようのない大きな火なのでしょうか。
きっと最初は、ちょっと息を吹きかけたり、踏めば消えるような、ほんの小さな火なのかもしれません。
そのちょっとした火がそのままにされ、次第に強くなり、気づいた頃には災害になっているかもしれません。
もしかしたら、自分自身の調子にも、同じことが言えるのかもしれない。
そう感じ、何かきっかけになる予兆がないか、自分の生活を観察してみることにしました。
小さな自分の変化に気づく瞬間
私は散歩や、自分で淹れるコーヒーの香りを嗅ぐことがとても好きです。
あまり時間がなくても、朝少し外に出て、周りの畑、草花、そういったものを眺めて、しっとりとするような爽やかなような、なんともいえない柔らかな空気に触れることが好きです。
雨の日は玄関から顔だけ出して、しとしとする音を味わったり、バイクカバーの窪みにたまる小さな水たまりを地面にかえすのも、嫌いではありません。
コーヒーも、お湯を沸かしている間に豆の量を測り、挽き、豆の色やふわっと広がる香りに顔を近づける瞬間が好きです。
次に好きなのは、蒸らすためにお湯をコーヒーの粉に細く、ゆっくり注いでからの数十秒間の、ゆっくり膨らんでいく様を見ながら、あたたかな香りをいっぱいに吸う瞬間です。
…こういった自分がうっとりする瞬間を書いていくのは、えもいわれぬ快感があるので、ついつい脱線してしまいます。
こうした自分の好きな習慣、五感で感じ取って楽しんでいることに、「小さな変化」が起きることに気が付きます。
なんとなく、億劫。
なんとなく、やるけれど満たされない。
なんとなく、「私はこれが好きだからやっている」と自分に言い聞かせている感じ。
なんとなく、義務感。
次第に、同じ行動をとっているはずなのですが、私の心に起こることが、少しずつ変わっていきます。
なんとなく、「そうじゃない感じ」が増えてきます。
小さな変化を見て見ぬふりした先に
そうした小さな変化、違和感。
違和感を覚えながらも、習慣、好きであるはずの行動は半ば無理やり続けていきます。
そうすると、次第に、寝ても休まっていない感じ、食べても美味しくない感じ、日中身体が重い感じ、がじわじわと出てきます。
そういったものも無視していきます。
無視している真っ最中は、無視しているということにも気づいていないんだと思います。
そうした生活を続けていくと、少なくとも主観では「急な心身の不調」が現れます。
小さな変化は身体からのメッセージ?
ずっと、原因不明の急な心身の不調、として悩んでいました。
身体や心が弱い人間だと思っていました。
ですが、こうして振り返り、
「もしかして、不調の予兆があるのかな」
と思うようになりました。
前述の小さな変化の連続は、小さすぎて自分ではなかなか気づきません。
試しに、「気づいた段階で休んでみる」ようにしてみました。
上述した、自分の小さな変化の流れを、気づいた段階で、立ち止まってみることにしました。
はじめは、食事や睡眠のしんどさ。
変化で言うと、急な不調を自覚する直前の段階。
この時点で休んでも、なかなか休まらないし、回復も遅いですが、ぐったりと不調真っ最中と比べると幾分マシかもしれないと発見します。
ただ、幾分、くらいで、結局その時熱中していたことや取り組んでいることがしばらく中断してしまうのは変わりません。
それならば、もっと早い段階ではどうだろう。
好きなはずの習慣や行動が義務感に感じている時に、それをやめてみる。
これはかなり自分にとって効果がありました。
うまくいくと、自分の取り組みが中断することなく、また再び、習慣の好きなことが楽しく感じられるように戻ってくれます。
自分の力だけでは難しいので・・・
ただ、「やめてみる」ことの難しさを同時に感じます。
本来、好きなことのはずなんですもの。
ただ、好きなことが楽しめなくなるほど、疲弊している証拠なのかもしれません。
頭ではわかっていても、「自分はこれが好きなんだ。やらなきゃだめだ」と感じている真っ最中に止めるのは非常に難しい。
かといって、この状態で続けると、本格的に不調になり、好きなことも、取り組んでいることもかなり滞ってしまいます。
そこで、ダイエットの経験を活かしてみることにします。
それは、「自分の意志は弱い」と認めること。
意志の力でどうにかしようとする時は、大抵どうにかなりません。
私は生粋の根性なしなのです。
ダイエットの時は、それを認めて、意志の力で頑張らなくてもいい心構えや仕組みを作っていきました。
今回は、
家族に、「◯◯の様子になったら声をかけて」とお願いする。
コーヒーポットの前に「私が好きならあなたを大切にして」とメモを貼る
ことを試してみました。
大好きな家族と、大好きなコーヒーの力を借りることにしたわけです。
なんとなく私が元気がない様子などを感じ取ると、家族は声をかけてくれます。
それでも私は時折、「そんなの気のせいだよ」とおばかな考えをしてしまうことがあります。
そのままコーヒーポットに向かうと、件のメモが目に留まります。
相乗効果で、「止める」ことができる確率が上がってきています。
自分がやりたいことをしたり見つけたりするために
この作戦の繰り返しで、少しずつですが私は、体が動かなくなるほどの心身の不調に陥る前に、一時休止を挟んで、また活動を続けられるようになってきました。
今も、やっちゃったな、と感じてしまうことはありますので、まだまだ修行中です。
せっかくこの世に生を受け、生きる目的を自分で決められるのは生物の特権だと思っています。
素晴らしい道具などは、生まれてくる前から役割が決まっていて、その役割を果たすことこそが存在意義です。
しかし人間はそれがありません。
後付けで、自分で自分の人生の目的を決められる存在だと思います。
それがなかなか決められない、決めたはずなのにうまくいかない、無事自分の生きがいを見つけ邁進する、何かを悟り、他者の尺度ではなく自分自身の価値観で生き方を決める等など、悩み苦しむことも含め、こうした営みを行うところに、人間の素晴らしさがあるのではないかとこっそり感じています。
邁進するためにも、悩むためにも、悩んだ結果あえて何もしない選択をしても、特に悩まずのんびり暮らすにも、土台となる心身の健康は大切だと思います。
そんな心身の健康、人生の土台のために、五感で日々の自分の変化を味わってみるのは、いかがでしょうか。
より「豊かなもの」が感じられるかもしれませんし、
より敏感に「不調の兆し」をキャッチできるようになるかもしれません。
ちなみに、私は今週からの気温の急激な降下を、ニュースや肌感覚で察知し、ダウンジャケット等も用意し、ネックウォーマー、セーター、暖かい飲み物、お風呂、毛布や冬物の布団と万全を期しました。
が、発熱、頭痛、節々の痛み、倦怠感が生じています。
たぶん、対策したからこの程度で済んでいる、と前向きに捉え、今日はもう寝ようと思います。
これ以上は何もするな、と身体が言っているので、素直にメッセージを受け止めようと思います。
ここまでご覧いただき、ありがとうございます。
このブログが、あなたがあなたらしく生きるための土台づくりの、何かのヒントになれば幸いです。
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